午前3時のおやつ

I'm not meshitero.

「無」の感情とカップ焼きそば

24歳になった。なって1ヶ月以上過ぎた。
幼少期ほど誕生日を意識しなくなったとはいえ、生まれてからかれこれ干支が2周したのかと思うと、何となく感慨深いものがある。
来年には25歳。容赦なく四捨五入してしまえば30代の仲間入り。実際はともかくとして、年齢だけ見れば完全にれっきとした大人だ。

話は変わるが、皆さんは食べ物に対して「無」の感情を抱いた経験はあるだろうか?
食べることはできる。けど、決して好きではない。かといって、別に嫌いなわけでもない。「どちらかといえば?」と聞かれてもうまく答えられない。目の前にすると、波風ひとつ立たない、人の気配もない、静かな夜の海のような感情になってしまう存在。

私にとっては、「焼きそば」がそれである。
実家に住んでいた頃、両親がよく焼きそばを作ってくれた。その度に、私はありがたく頂いていた。極めて穏やかな気分で、しっかりと味わって食べていた。うん、美味しい。でも、「じゃあ焼きそばのこと好き?」って聞かれると返答に困る。「ということは嫌いなんだ!ひどい!」待て待て、話を聞いてくれ。そういうわけじゃないんだよ。焼きそばを食べている間、倦怠期のカップルのような出口の見えない押し問答が頭の中で繰り広げられるのが常だった。

一人暮らしを始めると、焼きそばに触れる機会がものの見事に消滅した。そりゃそうだ。今までの人生において、能動的に焼きそばを食そうと思ったことがないのだから。昼ご飯に作ってもらったから食べた。誰かに「お腹いっぱいになっちゃったんだけどよかったら残り食べてくれない?」と聞かれたから食べた。私にあるのは、受動喫煙ならぬ受動喫そばの経験のみである。

一度だけ、自分で焼きそばを作ったことがある。頂き物の蒸し麺(多分結構お高めなやつ)と、中途半端に余った野菜の切れ端たちという冷蔵庫のスタメン構成を見て、導き出せた献立が焼きそばしかなかった時だ。まあいいか。普段積極的に食べないだけで決して嫌いなわけではないから、完成したら普通に美味しく食べられるだろう。調理する前はそう思っていた。
しかし、想定外の事態が発生した。冷蔵庫・冷凍庫の中に眠っていた余り物を手当たり次第ホイホイぶち込んだせいで、気付けばフライパンから溢れるくらいの量になってしまっていたのだ。急に大量錬成された「無」。それを目の前にしてふつふつと湧き上がってくる、そこはかとない恐怖心。しかし、1食分ずつタッパーに分けると、途端にいつもの真っ平らな感情が息を吹き返した。「ああ、焼きそばだなぁ」ただただそう思いながら、数日かけて大量の焼きそばを消費した。あれ以来、焼きそばは作っていない。


そんな感じの距離感で焼きそばに接していると、全く縁のない存在がある。

カップ焼きそば」だ。

実は生まれてこの方、カップ焼きそばという代物を食べたことがない。
スーパーやコンビニのカップ麺コーナーを覗くことはあるが、ラーメンやうどんが何種類もある中でわざわざ焼きそばを選ぼうと思ったことがなかった。

その気になればいつでも近づくことができるのに、ずっと触れずにいた存在。
でも、このままだと本当に一度も食べる機会がないまま生涯を終えてしまう。本当にそれでいいのか。
いや、別に食べなくても特にこれといって支障はないのだけれど。でも、なんとなく、いつかは向き合わなければいけないという謎の義務感が胸の内にあった。

現在24歳。迎えた2度目の年女。もしかしたら、今がその時なのもしれない。このまま知らぬ存ぜぬを貫くこともできるだろう。でも、今この時を逃したら次がいつになるかわからない。私は覚悟を決めた(※カップ焼きそばを食べるか否かの話です)。


ある日の昼下がり。近所のコンビニに行き、まっすぐカップ麺コーナーへと向かった。棚の右端に並んでいたカップ焼きそばを1つ手に取り、見つめる。俄には信じ難かった。自分の手の中にカップ焼きそばがあるという事実が。

レジで会計してもらっている間も、心臓がバクバク鳴りっぱなしだった。いよいよこのカップ焼きそばが自分のものになる。「初めて」に対する興奮と、もう後には戻れないという恐れ。若頭に命じられて初めてクスリを運ぶ新米ヤクザもこんな気持ちなのだろうか。駄目だ、映画「初恋」を観て以来、明らかに思考回路の治安が悪くなっている(※繰り返しますがカップ焼きそばの話です)。

ちなみに、選んだ銘柄はUFO。ペヤングも一平ちゃんもあったけど、なんとなく四角より円の気分だったのでUFOをチョイス。隣のチュロッキーは有事に備えて一緒に買った(有事って何???)。

帰宅してすぐに電気ケトルをセット。沸騰するのを待つ間、パッケージに記載されている作り方を読む。ひたすら読む。今日日カップ焼きそばの作り方をここまで熟読している人間は私くらいなのではないだろうか。今この瞬間に限っては、世界で一番真剣にカップ焼きそばと対峙している自信があった。

熱湯を注ぎ、3分待つ。きっちりタイマーで測った。カップ麺の待ち時間を正確に測るなんて、一体いつ振りだろうか。普段カップヌードルどん兵衛を食べる時、如何に不真面目な態度で臨んでいたか反省させられる。カップ焼きそばのおかげで、今まで蔑ろにしてきた大切なことに気づくことができた。

次に待ち構えるのは、最大の山場もしくは醍醐味と称しても過言ではない湯切り。「湯切りする時にシンクがベコッ!って鳴るのいいよね〜〜」「お湯捨てたかったのに間違えて麺捨てちゃってさ〜〜」みたいなカップ焼きそばあるあるに知ったかぶりをするのは今日でお終いだ。これからは私も「当事者」となるのだから──と崇高な心持ちでお湯を捨てたが、麺は一本も溢れなかったしシンクはうんともすんとも言わなかった(調べたら最近は熱湯を流しても音がしないタイプのものが多いらしい)。

そんなこんなで特に問題なく湯切りを済ませ、ソースと青のりもかけ終え、無事にカップ焼きそばが形になった。

湯切りする前の状態を見て(このままいい感じに味付けしたら美味しいラーメンが出来上がるのでは??)と魔が差した瞬間もあったが、完成した今となっては良い思い出である。
いざ実食。青海苔が鏤められた焦げ茶色の麺に、割り箸を埋める。掴んだ数本を、口へと運ぶ。


一口食べた感想は「あー、焼きそばだ」。
うん、焼きそばだ。紛うことなき焼きそばだ。確か、屋台で売られてる焼きそばもこんな具合のジャンキーさだったような。でも屋台のよりちょっと麺がふにゃっとしている気がする。本当は待ち時間2分半くらいでちょうど良いのだろうか。
様々な感想が、ぼんやりと脳裏に浮かんでは消えていく。けれど結局、最終的に辿り着くのは「無」だった。好きではない。嫌いでもない。胸の内に広がるのは虚空そのもの。ああ、カップ焼きそばでもこうなんだなぁ。やっぱり私と焼きそばの関係性は永遠に変わることないんだろうなぁ。

そんな風に考えていた矢先、事件が起きた。
半分ほど食べ進めた辺りで、ピタリと箸が止まってしまったのである。滅茶苦茶ざっくりはっきり言うと、「飽きた」。ついさっきまで普通に美味しく食べていたにもかかわらず、急にふつふつと湧いてくる抵抗感。明らかに身体がカップ焼きそばを拒否している。「もういらない!」と主張している。おかしい。今まで焼きそばを食べていてここまで明確な「飽き」の感情を抱くことはなかった。正真正銘初めての経験である。

とりあえずチュロッキーを食べ、仕切り直しを図る。まさかこんな「有事」が訪れるとは思ってもみなかった。過去の自分の名采配が光る。
糖分と油分の塊を摂取したことで、口内のコンディションは完全に激甘モード。ついでに午後の紅茶ミルクティーも流し込んで華麗なフィニッシュ。この状態ならカップ焼きそばの味の濃さが新鮮に感じられて、美味しく食べられるだろう。我ながら、360°どこから見ても隙のない完璧な作戦、のはずだった。

いらない。やっぱりいらない。身体が全く受け付けない。嘘だろ、あれだけ甘味ドーピングを行ったのに。もはや抵抗感を通り越して嫌悪感すら湧いてくる。姿を見たくなくて、剥がした蓋を再度被せた。目の前のカップ焼きそばに感じていたのは、紛れもない「拒絶」だった。

生まれて初めて、感情が芽生えた(焼きそばに対して)。凪いでいた海に、波が起きた。風もビュンビュン吹いてきた。柄の悪いお兄さんもやってきた。表記が思いっきり外国語な洗剤の容器とか砂浜に流れ着いてきた。

それは明らかにマイナス方面の感情で、これならずっと「無」でいた方がよかったのかもしれない。でも、どこか嬉しさも感じていた。付かず離れずな焼きそばとの距離が、一見ぐんと離れたようで、実は近くなったような気がしたからだ。
「一度もカップ焼きそばを食べずに死ぬわけにはいけない」という摩訶不思議な使命感も、もしかしたら焼きそばとの関係を変えたいと願う深層心理によるものだったのかもしれない。



この日、私と焼きそばの新たな歴史が幕を開けたのだった。





その晩。
外出先から帰ってきて、目に止まったのは半分残ったままのカップ焼きそば。今ならお腹も空いてるしと思い、残りの焼きそばを食べてしまうことにした。すっかり冷めちゃってるけど、まあいいや。
麺を啜る。抵抗感や嫌悪感はすっかり消えていた。うん、美味しい。うん、これぞ焼きそばだ………………………




ごめん、やっぱ「無」だわ。

昼間感じた強い感情は、いとも儚く散ってしまった。あれはもしかして、白昼夢か夢まぼろしの類だったのだろうか。もう二度と、感じることはできないのだろうか。

空になったカップの中に、得もいえぬ虚無が広がった。

騎馬戦に憧れすぎて週3で騎馬戦の夢を見た話

学生時代に残してきた後悔。誰しも一つや二つはあるんじゃないだろうか。

県大会決勝戦、あそこでヒットを打てていたら──
自分の気持ちに素直になってあの時告白していれば──
今更言っても仕方がない。だけど、時々ふっと思い出してしまう苦々しい記憶。
御多分に漏れず私にもある。自分にはどうすることもできなかった、でも未だに諦めきれない、とある後悔が。それは、


「騎馬戦やりたかったんじゃ〜〜〜〜〜!!!!!」


騎馬戦。それはロマンの結晶。教科書上の出来事でしかなかった「IKUSA」を体験することができる非常に貴重な機会。かつて無念のうちに散っていった武士たちの魂を額のハチマキに宿し、果敢に敵陣へと攻め入る。こんなの、心が踊らないわけがない。
背の順で前から3番目以内にしかなったことがない私は、もし騎馬戦に参加したら絶対に騎手になれるという確信があった。これも、騎馬戦への憧憬が募っていった理由の一つである。

ドラマや漫画で騎馬戦のシーンを見るたびに、自分だったらどうやって戦おうかと妄想する日々が続いた。
パワ○ロか?というくらい真面目に架空の選手のステータスや戦術を考えて自由帳に書き綴ったりもした。斬新な黒歴史だと笑われるだろうか。否定はしない。

しかし、現実は非情である。小中高の12年間の中で、騎馬戦を体験する機会は一度たりともなかった。綱引き、玉入れ、リレー……彼らは幾度となくやってきたのに、愛しの騎馬戦はチラリともその影を見せてくれなかった。運動会・体育祭フェス限定12連ガチャ、見事に大爆死。結局、騎馬戦の趣を一切味わうことなく社会人になってしまったのだ。とてつもなく悲しい。こんなことなら「体育祭で騎馬戦やるぜ!」って公約を掲げて生徒会長選挙に出馬すればよかった。いや、これはこれで別の後悔を招きそうだからやっぱり無しで。

これほどまでに騎馬戦への感情を拗らせた人間の末路。別に誰も気になってはいないと思うが、どうか話させてほしい。


ある日の晩。何の変哲もない、穏やかな夜だった。いつも通り歯を磨き、明日の準備をし、ベッドに入り、眠りについた。
夢を見た。騎馬戦をする夢を。夢の中の私は大将騎馬に乗り、相手のハチマキを次から次へと奪っていった。その姿はまるで川中島武田信玄。では、宿敵・上杉謙信は誰なのか。


ノブじゃ。ノブが謙信じゃ。


何故か私は千鳥ノブと真剣勝負を繰り広げていた。あれか、最近千鳥にハマって相席食堂やテレビ千鳥ばかり見ていた影響か。いろはに千鳥の過去回をアマプラに追加してくれ〜と星に願っていた影響か。だとしても、騎馬戦の相手として死に物狂いの形相で夢に出てこられると、流石に喜びより困惑が勝つ。

そんなこちらの困惑を他所に、ノブと愉快な仲間たちは一目散に突進してくる。よし、わかった。そっちがその気なら受けて立つ!……と覚悟を決めたところでふっと目が覚めた。なんてことだ!夢の中とはいえ、もう少しで念願の騎馬戦を味わうことができたのに!
……いやでも、正直有名人とバチバチに絡む夢はあまり寝覚めが良くないので、ある意味助かったのかもしれない。いつだったか千原ジュニアと漫才をする夢を見た後も、すこぶる調子が悪かったし。


VSノブが不発に終わった翌日。再び騎馬戦をする夢を見た。相手が誰かはわからなかったが、試合自体はきちんとやっていたと思う。しかし、残念なことに起きた瞬間、内容の殆どを忘れてしまった。騎馬戦をやっていたのは確かだけど、手応え的なものはまるでない。見事なまでの不完全燃焼で、その日は一日モヤモヤしながら過ごした。


数日後、またまた夢の中で騎馬戦をした。私はあまり夢を見ない体質なので、こんな短いスパンで立て続けに同じ内容の夢を見るとどうにも調子が狂ってしまう。ちゃんと寝たにもかかわらず、睡眠不足の時のように思考回路がフワフワしており、仕事でもケアレスミスを連発してしまう始末。上司を困惑させてしまったが、「ちょっと騎馬戦の夢の見過ぎで……」と弁明する勇気はなかった。


まさか騎馬戦への想いが募るあまり、日常生活に支障をきたす羽目になるとは。 もはや憧れなんて綺麗なもんじゃない、執着だ執着。もしこのまま一度も騎馬戦を経験せずに死んでしまったら、私はどうなってしまうのだろうか。十中八九成仏できない気がする。

でも、今更どうやって本懐を遂げたらいいのか。当然だけど、一人ぼっちで騎馬戦をやるのは不可能だ。4人一組だとしても、最低8人は必要になる。これはなかなかにキツい。悲しきかな、「騎馬戦やろ〜!」いなんて酔狂な提案をしてすぐに7人集められるほどの人望なんて持ち合わせていない。人間関係構築を疎かにしていると、こういう時にツケが回ってくる。
仕方がない。結局、私のような人間は、孤独に堅あげポテトブラックペッパー味を貪りながら郵便受けに入っていたタウン誌を斜め読みするのがお似合いなのだ。

へー、今月こんな催しがあんのか。ふーん、社会人サークルって案外色々あんのね。俳句、コーラス、拳法……。


ここで私は大変なことに気が付いてしまった。

思わず右手に力が入り、掌中の堅あげポテトが粉々に砕け散る。ごめん、堅あげポテト。お前のアイデンティティをクライシスさせてしまったかもしれない。


もしかして、タウン誌や公民館のホワイトボードでよく目にする「いきいきグループ きらめき」みたいなイマイチ活動内容が伝わってこないふわっとした名前の団体も、実は騎馬戦愛好家の集いだったりするんじゃなかろうか。彼らが週に一度公民館の会議室に集合しているのは、決してお年寄りたちの茶しばき合い対決のためではない。より強固な騎馬の組み方や騎手の攻め方を研究するためなのだ。

「じゃあ堂々と騎馬戦サークルを名乗ればいいじゃないか」そんな意見もあるかもしれない。だがしかし、想像してみてほしい。いい歳した大人が「んじゃ、ちょっくら騎馬戦やってくるわ」なんて家族に言ったらどうなるか。
危ない、大人気ない、一族の恥 ── ほぼ間違いなく非難轟々だろう。学校の運動会でさえ封印されることが多い昨今、世間の騎馬戦への風当たりは強い。そこで、いかにも人畜無害そうな団体名でカモフラージュしながら息を潜めるように活動しているのだろう。そうだ、同朋は案外近くにいるのだ。まだその存在に気が付いていないだけで。

ああ、なんと世知辛く生きづらい現代社会。私にできるのはせめて、騎馬戦を愛し騎馬戦に愛される人々が自由にのびのびと活動できる世界を願うことくらいだ(※ここまで全て妄想)。


そんな壮大な感情に浸っていたせいで、不動産屋に送る重要書類を書き損じた。おまけに押したての印鑑に触ってしまって手も書類も汚れた。畜生、騎馬戦なんか嫌いだ。

タピオカが怖い

タピオカが怖い

流行という名の最強装備を身に纏い、女子高生を味方につけ、あれよあれよという間に堂々たる地位を築いたあの黒い玉が怖い。ヒイヒイ言いながら23年間生きてきた私を一瞬で追い越してしまうくらい、爆速で世間に馴染んでいるあの黒い玉が。
学校から帰ってきたら居間で知らないおじさんと母が談笑していて、事態が飲み込めず固まっていると「おう、おかえり」って馴れ馴れしく言われた時を彷彿とさせる。そんな経験ないけれど。

この恐怖心を打ち明けると、タピオカ有識者たちは決まってこう返してくる。

「でもタピオカって昔からいろんなものに使われてるよ?ポン・デ・リングとか一時期流行った白い鯛焼きとか」

正論だ。だがしかし、そうは言われても釈然としない。たとえ以前から存在していたとしても、気付かないうちに触れていたとしても、認識できていなければ意味はない。

あの人は一体誰だと母に尋ねたら「誰って叔父さんよ。あらやだ覚えてないの?あんたが生まれた時出産祝いもくれたのに」とか何とか言われて(知らんわ!!)と内心ブチギレたことを思い出す。そんな記憶ないけれど。

 

だから、これだけブームになっても全く食指が動かなかった。皆美味しそうに食べたり飲んだりしているにもかかわらず、何故かタピオカが視界に入ると背筋に冷たいものが走り、動悸が止まらなくなる。

実はあの漆黒の球体はブラックホールを凝縮したもので、一度体内に取り込んでしまったら最後、じわじわと侵食されて最終的には宇宙に漂う塵にされてしまうのではないだろうか。だから無意識に恐怖を感じているのではないだろうか。そうだ、きっとこれは防衛本能なんだ。こんな想像を知人に話したら、少しの沈黙の後「感受性が豊かなんだね」とだけ返された。その表情は、2%の慈しみと98%の哀れみで構成されていた。

 

転機が訪れたのは、3ヶ月ほど前。

島根県雲南市三刀屋町にタピオカ専門店がオープンする」

という島根出身者ならにわかには信じがたいニュースが耳に飛び込んできた。

えっ、三刀屋三刀屋とタピオカ??

浅漬けとパンケーキくらい食い合わせ悪くない???

(参考資料)

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雲南市でもタピ活しよう!タピオカドリンク専門店OROのメニューを紹介|三刀屋町 | 島根県のグルメ・観光スポットナビ|島根旅行ならトリセツシマネ!

どうやら、紛れもない事実らしい。

ということはだ。近いうちに三刀屋在住のマダム&ムッシュが私よりも先にタピオカデビューする日が訪れてしまう。いや別に誰かと競っているわけではないけど、僅かに残っていた20代としてのなけなしのプライドが許さなかった。

いつまでも逃げてはいられない。私は腹を括ってタピオカとタイマンを張ることにした。決戦日は2019年10月20日。家族を故郷に残し、一人戦場へ向かう一兵卒のような気持ちで近所のショッピングモールに足を運んだ。

 

入口を潜り抜け、まっすぐ向かったのは「ムーミンスタンド」。その名の通り、ムーミンモチーフのドリンクを販売している店舗だ。

沢山種類があったが、購入したのはロイヤルミルクティー。散々避けてきたせいで「タピオカといえばミルクティーに入ってるもの」という偏ったイメージしかないことが露呈している。

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何故、敢えてこの店を選んだのか。理由は至極単純で、世界観を重視するムーミンスタンドではタピオカを「ニョロニョロのたね」と称していたから。タピオカではなく別物だと意識しながら飲めば、きっと恐怖心も薄れるに違いない。孔明目から鱗が落ちるほどの名案である。

さて、これで全ての準備は整った。あとは実食あるのみ。意を決して、極太ストローを口に運ぶ。

これはニョロニョロのたねこれはニョロニョロのたねこれはニョロニョロのたね……

…………ニョロニョロのたね?

ここから……ニョロニョロが生まれる……?私は……今からそれをた、食べ……?

…………いやこっちの方が恐ろしいわ!!!!!

 

思わずカップをぶん投げそうになった。隣で和気藹々とアイスを食べてる親子がいなければ、突如公共の場で発狂する危険人物として警備員さんのお世話になっていたかもしれない。

なんとか理性を取り戻し、精神を落ち着かせる。冷静に考えてみれば、普段から肉だの卵だのをバクバク食べているのに何を恐れることがあるのか。弱肉強食・食物連鎖はこの世の真理。申し訳ないけど、ニョロニョロには私の血肉となってもらう。

 

Take2。ええい、ここまで来たらなるようになれ。私は全身全霊ありったけのパワーでストローを吸った。

ズゾゾゾゾッ

 

ε=ε=ε=ε=ε=ε=●●●●●●(凄まじい勢いで突っ込んでくるタピオカ軍団)

!?!?!?(てっきりまずは液体が流れ込んでくると思い完全に油断していた喉奥)

II

◎$♪×△¥●&?#$!(窒息)

 

結論:やっぱりタピオカは怖い。

 

 

 

【真面目な感想という名の蛇足】

全然苦手ではないけれど、これからも積極的に食べたいかといえばそうでもないかな……という感じ。全く記憶にない叔父さんから、たまに正月とか冠婚葬祭で会うならいいけど四六時中一緒に過ごすと疲れる叔父さんになった。

 

 

 

「この歌い方がすごい!大賞」を勝手に決めたので発表する

歌詞が好きな曲。メロディが好きな曲。思い出に残ってる曲。一口に「お気に入りの曲」といっても、その好きな理由は様々だ。

時に私は「この曲のこのフレーズの歌い方が滅茶苦茶ツボ!」と感じることがある。今回は、そんな歌い方が素晴らしい4曲を「この歌い方がすごい!大賞」として紹介したい。大賞と言いつつ4つあるじゃねーか!というツッコミはガン無視して強行突破。

YouTubeに公式MVがある曲はそのリンクを、ない曲はiTunesのリンクを記載)

 

ドキュメント2000〜the sweetest day of my life〜/スガシカオ

「みんなが見てる…」

https://itunes.apple.com/jp/album/%E3%83%89%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%882000-the-sweetest-day-of-my-life/1124773433?i=1124773520&uo=4&at=10l8JW&ct=hatenablog

ドキュメント2000 ~the sweetest day of my life~ スガシカオ - 歌詞タイム

友人の結婚式で歌を披露することになった主人公が、あーでもないこーでもないと悩む曲。結婚ソングらしく多幸感に溢れた曲調と、終始うだつが上がらない歌詞のギャップがなんとも面白い。

歌い方すごいポイント、略して歌すごポイントは大サビ直前。式当日、ついに自分の出番が回ってきた。司会の紹介も終わり、さあいよいよ演奏だ!という状況下での

「みんなが見てる…」

ここの、ほんっっっとうに情けない声色が滅茶苦茶良い。何が良いって、込められてる情報量の多さ。

「あ〜〜来ちゃったよ〜とうとう来ちゃったよ〜〜嫌だ〜帰りたい〜〜こういうの僕苦手なんだよほんと〜〜でも今更後には引けないしな〜〜あ〜上手く歌えるかな〜〜二人の晴れの舞台台無しにしちゃったらどうしよう〜〜うわ〜みんなこっち見てるじゃんやめてくれ〜〜頼むからそんな視線向けないでくれ〜〜心臓が痛い〜〜吐きそう〜〜」

恐ろしいことに、たった7文字でこれだけの感情が伝わってくる。スガシカオは表現力の化け物か何かか。

「正義の味方」や「たとえば朝のバス停で」をはじめ、物語性に富んだ楽曲を数多く生み出しているスガシカオ。その中でも、特にこの「ドキュメント2000」は、明快なストーリーと主人公のキャラクターが見事に描写されている。まるで、短編小説を読んでいるかのような趣を感じることができる一曲だ。

 

メロウ/椎名林檎

「そうだろう?」

メロウ 椎名林檎 歌詞情報 - うたまっぷ 歌詞無料検索

狂気と危うさ全開な楽曲。唸るようなサウンドと、歌詞の中に散りばめられた「ナイフ」「赤く染めた」といった不穏なワードが特徴的。

中でも耳に残るのは、曲中で4回登場する以下のフレーズ。
 お前が僕よりイッちゃっているのだ

 狂っている そうだろう?

この「そうだろう?」という問いかけ、実は3回目だけ明らかに歌い方が異なるのだ。

他の部分は気怠さの中に激情が滲むような歌い方なのに対し、3回目はどこか恍惚とした印象を受ける。まるで、何かを成し遂げて満足感と安心感に浸っているみたいな。この部分があることによって、一層世界観に深みが出ていると思う。

メロウの主人公である「僕」、全体通して鬼気迫ったイメージが強いのだけど、ここだけは純粋な笑顔を浮かべているのが想像できる。果たしてその理由が純粋なのかどうかは別として……

余談だが、曲全体に対する私の解釈はこんな感じ(presented by いらすとや)。

f:id:satogashikun:20190414174050j:image

「社会なんてクソ食らえ!一緒に夢を追いかけようぜ!」って約束したにも関わらず、裏切って別の道を選んだかつての仲間に報復する曲……だと思うと、なかなか楽しい。想像が広がる楽曲です。

 

クレイジークレイジー (M@STER VERSION)/一ノ瀬志希 (CV: 藍原ことみ) & 宮本フレデリカ (CV: 髙野麻美)

「泣いちゃってるんだよ」

クレイジークレイジー (M@STER VERSION) / 一ノ瀬志希 (CV: 藍原ことみ) & 宮本フレデリカ (CV: 髙野麻美) の歌詞 (2757882) - プチリリ

ここの歌すごポイントは、絶妙な声の潤み具合。嗚咽混じりのあからさまな泣き声ではなく、決壊寸前の状態で必死に堪えよう・堰き止めようとしているような声色に惹き込まれる。

しかも、ここからの流れがまた凄い。このフレーズの直後、微かにスッ、と息を吸う音が入るのだ。それから、「音の洪水」とでも表現したくなる怒涛の間奏に突入する。一連の構成が非常に巧みで、初めて聞いたとき(ああ、歌詞であれこれ述べなくても感情ってこんなに伝わるのか……)と驚愕したのを覚えている。

個人的に、デレステ実装曲の中で一、二を争うくらい好きな楽曲。未プレイの方も、是非一度聴いてみてほしい。

 

ZION TOWN/the band apart

「悪いことしようぜ」

ZION TOWN / the band apart の歌詞 (2629783) - プチリリ

私がバンアパにハマったきっかけの楽曲。吹き抜ける夏風のような爽快感溢れるイントロに、初っ端からグッと惹き込まれる。

そんな軽やかなメロディに乗せて歌われる、少しドキッとするこの歌詞。ここの悪戯っぽく誘うような歌い方には、疲れた大人をたちまち童心に帰らせてしまう魔力がある。

「寄り道して帰ろうぜ」「1限サボっちゃおうぜ」誰しも身に覚えがある、ちょっとした禁忌破り。今となっては遠い過去の記憶だけど、たまには昔に戻って、面倒なことは忘れて、あの時みたいにありのままの自分で楽しんでもいいんじゃない?

慌ただしい日々の中でつい忘れてしまいそうになる感情を、たった一つのフレーズが思い出させてくれる。新生活が始まるこの時期に、ぴったりな楽曲だ。

もしこの曲でthe band apartに興味が出たら、続けて「Eric.W」「coral reef」「ピルグリム」と聴いてみるのがオススメ。個人的最強バンアパ入門コース。

 

以上4曲。こうやって文章化すると、たったワンフレーズで人の心を掴むアーティストの凄さをしみじみと実感することができた。せっかくなので、これを機に他の曲も歌い方に注目して聴き直してみようと思う。

いやあ、音楽って良い文化だなあ(結論)。

 

 

自分は死神なんじゃないかと思う瞬間について 或いはとあるサイトへの追憶

私が好きになったものは、みんな遠くへ行ってしまう。

そんなセカイ系ラノベのヒロインみたいなことを考えしまう瞬間がある。関係ないけど、セカイ系ってもう死語に近いんだろうか。

例えば、バンドにハマってアルバムを買ってきたら数日後に解散が発表された時。

例えば、面白い漫画を発見してハイテンションになっていたら、即打ち切りになった時。

例えば、あまりの美味しさに感動して「この夏はこれを主食にする!」と心に決めたアイスが、翌日にはコンビニから消えていた時。

とある、1つの疑念が浮かぶのである。

「ワイ、もしかして死神か?」

冷静に考えれば、単なる偶然に過ぎない。自分に何かの運命を捻じ曲げる力があるだなんて、本気で信じているわけじゃない。でも、生まれてこの方、あまりにもこういうことが多い。多すぎる。なので、どうしても「また愛するものの命を刈り取ってしまった……」と自意識過剰に嘆くのをやめられないのだ。

 

この悲哀を特にひしひしと感じていたのは、中学・高校生の頃。

当時は、所謂「個人サイト全盛期」。

御多分に洩れず、私も様々なサイトに入り浸っており、そこで連載されているオリジナル漫画や小説を毎日楽しんでいた。

しかし、何故か私が閲覧するようになった途端、順調だった更新が悉く滞る。場合によっては、サイト自体が閉鎖されてしまう。一体、何度「404」「ホームページが存在しません」の文字列を見て涙を飲んだことか。管理人さんを忙殺する現実という名の荒波を呪う一方で、己の不運さとタイミングの悪さに頭を抱える日々だった。

 

そんな悲しき思い出の多い個人サイトの中でも、一際記憶に刻まれているサイトがある。

メインコンテンツは学園もののオリジナル小説で、基本週1,2回くらいのペースで更新されていた覚えがある。今でも、このサイトを見つけた時の衝撃と高揚感は忘れられない。それくらい、自分の趣味嗜好にガッツリ嵌った作品だった。起床後と就寝前に必ずサイトを訪れ、更新の有無をチェックするのが、当時の日課と化していた。

コンスタントな更新が急に途絶えたのは、読者になって半年ほど経った頃。

何日経っても、更新履歴のページが「○月□日 第×章第△話公開しました!」から一向に変わらない。最初はただ単に管理人さんが多忙なだけかと思っていたが、そのまま1ヶ月が過ぎた。サイトと並行して運営されていたブログの方にも、特に更新に関するお知らせはなかった。

管理人さん大学生って言ってたし、この時期は色々大変なのかな。まあ、待ってればいつかは更新されるよね。不安を感じつつ、出来るだけポジティブに考えていた。しかし、あっという間に1年が過ぎた。全く音沙汰はない。さらに1年経った。日付は止まったまま。ここまで来ると、流石に諦めつつあった。ああ、きっと、この物語の続きが紡がれることはないのだろう。

更新が止まった理由はわからない。執筆に割く時間がとれなくなったのかもしれないし、スランプになってしまったのかもしれない。或いは、あまり考えたくはないけど、何か不幸があったのかもしれない。結局、一ファンに真相を知る術はなかった。

 

高校卒業と同時に、ガラケーからスマホに機種変した。その頃には、個人サイトをチェックする習慣もほとんど薄れていた。だけど、あのサイトだけはどうにも心に引っかかっていて、スマホのブックマークにも登録した。そうしないと、あの場所に繋がる道が完全に断たれてしまう気がしたからだ。

それからさらに年月が経った現在でも、ふとした瞬間にサイトのことを思い出す。もしかしたら、何か動きがあるんじゃないか。一縷の望みを抱いて、ずっと消せずにいるブックマークを開く。そして、大量のバナー広告と 8年前の日付が載っているトップページを確認して、そっと立ち去る。

落胆と同時に、これでいいんだという気持ちもある。良くも悪くも昔に比べて目が肥えてしまった今、たとえ本当にあのサイトが復活したとしても、当時と同じ熱量で楽しむことはできないだろう。そんな、寂しい確信がある。

たまに思い出して、覗きに行って、更新履歴を確認して、帰る。多分、これから先も性懲りも無く同じことを繰り返す。

 

これじゃ、死神じゃなくて地縛霊だ。

 

ふわふわ知識を駆使して至って真面目に新元号を予想してみた話

ついに明日、新元号が発表されますね。

平成生まれの身からすると、人生初の経験なので今からウキウキが止まりません。具体的にどれくらいウキウキしているかというと、近所の映画館で新元号発表ライブビューイングを開催してほしいと思っているくらい。応援上映でもよさそう。菅官房長官が登壇したら、ピッカピカのサイリウム振りながら「はやく教えてーー!!」って叫びたい。もし発表中に何かアクシデントが起きたら、「頑張れ〜〜!」「小渕さんの分も応援してるよー!」ってエールを送りたい。まあ、実際は普通に仕事中なんですが。

元号発表時のネットの反応も気になりますね。ああ見える……新元号ツイッターのトレンド1位になって、しばらくすると「#○○(新元号の名称)に別の言葉を足して面白くする」的な大喜利ハッシュタグが5位辺りに入ってくるのが脳裏に浮かびまくる。

冗談はさておき。30年前とは世の中が著しく変化した現在、改元という国の超一大イベントに国民がどのような反応を寄せるのか、純粋に興味があります。なんかこの書き方だと、私が元号考案する有識者みたいだな。当然そんな訳はないんですが、せっかくの機会なので新しい元号を予想してみようかなと思い立ったのが数週間前。それも、割と真面目に。

とはいえ、元号や皇室制度についての知識皆無なペーペーが、何のインプットもなしに予想するのは無謀です。そこで、とっておきの参考文献に助けを求めることにしました。

 

おいで、Wikipedia

 

一応私もかつては大学生だったので、やはり参考文献に堂々と"Wikipedia"と記すのには抵抗感と罪悪感があります。しかし、今の自分は社会へ放牧された身。ウィキの名前を出しても単位を落としたり教授に呼び出されたり異端審問にかけられたりすることはありません。過去の自分と袂を分かち、自信を持って明記してやります。ああなんとも心地よい背徳感。

こうして、心強いパートナーと共に歩み始めた元号予想の道。まずはウィキが教えてくれた「元号制定の条件」を元に、ルールを2つ定めました。

 

①小学校学習指導要領で定められている教育漢字から選ぶ

まず目を付けたのが、「元号の字面は簡単平易であるべし」という条件。確かに、平成、昭和、大正、明治……どれも比較的画数少なめで、小学校で習う漢字ばかりです(教育漢字が最初に制定されたのは1946年なので、昭和以前については後付けですが)。この流れを汲むと、新元号にも教育漢字が使用されることはほぼ間違いないでしょう。

なので、最近は暇さえあれば文科省が公開している学年別漢字配当表とにらめっこしていました。パン屋のイートインで昼食を摂っている時もです。漢字がびっしり表示されたスマホを凝視しながらチーズカレーパンを貪る客。優しそうな店員さんに裏で容赦ないあだ名を付けられてても文句は言えない。

いやしかし、成人してから改めて見る配当表ってなかなか味わい深いんですよね。「若」や「干」って6年生まで習わないのかとか、「汽」って2年生で習うけど、正直日常生活で使う機会ほとんどなくねーかとか。案外いろんな発見があります。元号全然関係ないけど。

 

②イニシャル被りを避ける

書類等ではイニシャルで表記されがちな元号。なので、既存のH(平成)・S(昭和)・T(大正)・M(明治)と被るものにはならないはずです。

もしかしたらH始まりが続いて平成がHEY!表記に変わったり、S被りして昭和がSHOW!になる可能性もゼロではないですが。私が役所の窓口勤務だったら、提出される書類を見るたびに破り捨てると思います。

とりあえず、以上の2点を大前提として予想してみることに。ちなみに、ウィキには「古典に出拠を有すること」という条件も記載されていましたが、潔く見なかったことにしました。時には諦めも大事。

考え始めてわかったのは、この大雑把なルールだけでも意外と候補は絞られること。あと、「平」「成」「正」の使い勝手は凄い。あ〜〜「平」が優秀すぎる〜続投させてえ〜〜

そんなこんなで、3月上旬辺りから考えてきた新元号。試行錯誤を繰り返した結果、ついに条件をきちんとクリアし、字面的にも国の理想像としてふさわしいものが思いつきました。

では、発表します。私の予想は──

 

 

 

「安久」!!キミに決めた!!!

国家の平和と安寧が永久に続きますようにいう最大の願いが込められたこの元号なら

 

 

 

 

新元号「安久」などは避ける方針 - ライブドアニュース

 

 

 

は?

 

あの……な、なしてそないな……クラスで流行ってるJ-POPを馬鹿にして一昔前の洋楽に傾倒する中学生みたいなことを仰るんじゃ……別に人気なやつでもええやないですか……安久ちゃんを見捨てんといてや……ドキドキしながら発表を待つつもりだった私の純情を返して……

いやそれ以上に、1ヶ月近く費やして本気で予想した元号が、普通にみんな思いつくものだったという事実が辛い。あの時間はなんだったんだ一体。無か。無なのか。

 

 

今回の教訓:元号予想はそんなに甘くない。

 

 

最後に。

このまま引き下がるのは癪なので、たった今思いついた別の予想を置いておきます。

「光安」

当たったら誰か100億円ください。