午前3時のおやつ

I'm not meshitero.

「無」の感情とカップ焼きそば

24歳になった。なって1ヶ月以上過ぎた。
幼少期ほど誕生日を意識しなくなったとはいえ、生まれてからかれこれ干支が2周したのかと思うと、何となく感慨深いものがある。
来年には25歳。容赦なく四捨五入してしまえば30代の仲間入り。実際はともかくとして、年齢だけ見れば完全にれっきとした大人だ。

話は変わるが、皆さんは食べ物に対して「無」の感情を抱いた経験はあるだろうか?
食べることはできる。けど、決して好きではない。かといって、別に嫌いなわけでもない。「どちらかといえば?」と聞かれてもうまく答えられない。目の前にすると、波風ひとつ立たない、人の気配もない、静かな夜の海のような感情になってしまう存在。

私にとっては、「焼きそば」がそれである。
実家に住んでいた頃、両親がよく焼きそばを作ってくれた。その度に、私はありがたく頂いていた。極めて穏やかな気分で、しっかりと味わって食べていた。うん、美味しい。でも、「じゃあ焼きそばのこと好き?」って聞かれると返答に困る。「ということは嫌いなんだ!ひどい!」待て待て、話を聞いてくれ。そういうわけじゃないんだよ。焼きそばを食べている間、倦怠期のカップルのような出口の見えない押し問答が頭の中で繰り広げられるのが常だった。

一人暮らしを始めると、焼きそばに触れる機会がものの見事に消滅した。そりゃそうだ。今までの人生において、能動的に焼きそばを食そうと思ったことがないのだから。昼ご飯に作ってもらったから食べた。誰かに「お腹いっぱいになっちゃったんだけどよかったら残り食べてくれない?」と聞かれたから食べた。私にあるのは、受動喫煙ならぬ受動喫そばの経験のみである。

一度だけ、自分で焼きそばを作ったことがある。頂き物の蒸し麺(多分結構お高めなやつ)と、中途半端に余った野菜の切れ端たちという冷蔵庫のスタメン構成を見て、導き出せた献立が焼きそばしかなかった時だ。まあいいか。普段積極的に食べないだけで決して嫌いなわけではないから、完成したら普通に美味しく食べられるだろう。調理する前はそう思っていた。
しかし、想定外の事態が発生した。冷蔵庫・冷凍庫の中に眠っていた余り物を手当たり次第ホイホイぶち込んだせいで、気付けばフライパンから溢れるくらいの量になってしまっていたのだ。急に大量錬成された「無」。それを目の前にしてふつふつと湧き上がってくる、そこはかとない恐怖心。しかし、1食分ずつタッパーに分けると、途端にいつもの真っ平らな感情が息を吹き返した。「ああ、焼きそばだなぁ」ただただそう思いながら、数日かけて大量の焼きそばを消費した。あれ以来、焼きそばは作っていない。


そんな感じの距離感で焼きそばに接していると、全く縁のない存在がある。

カップ焼きそば」だ。

実は生まれてこの方、カップ焼きそばという代物を食べたことがない。
スーパーやコンビニのカップ麺コーナーを覗くことはあるが、ラーメンやうどんが何種類もある中でわざわざ焼きそばを選ぼうと思ったことがなかった。

その気になればいつでも近づくことができるのに、ずっと触れずにいた存在。
でも、このままだと本当に一度も食べる機会がないまま生涯を終えてしまう。本当にそれでいいのか。
いや、別に食べなくても特にこれといって支障はないのだけれど。でも、なんとなく、いつかは向き合わなければいけないという謎の義務感が胸の内にあった。

現在24歳。迎えた2度目の年女。もしかしたら、今がその時なのもしれない。このまま知らぬ存ぜぬを貫くこともできるだろう。でも、今この時を逃したら次がいつになるかわからない。私は覚悟を決めた(※カップ焼きそばを食べるか否かの話です)。


ある日の昼下がり。近所のコンビニに行き、まっすぐカップ麺コーナーへと向かった。棚の右端に並んでいたカップ焼きそばを1つ手に取り、見つめる。俄には信じ難かった。自分の手の中にカップ焼きそばがあるという事実が。

レジで会計してもらっている間も、心臓がバクバク鳴りっぱなしだった。いよいよこのカップ焼きそばが自分のものになる。「初めて」に対する興奮と、もう後には戻れないという恐れ。若頭に命じられて初めてクスリを運ぶ新米ヤクザもこんな気持ちなのだろうか。駄目だ、映画「初恋」を観て以来、明らかに思考回路の治安が悪くなっている(※繰り返しますがカップ焼きそばの話です)。

ちなみに、選んだ銘柄はUFO。ペヤングも一平ちゃんもあったけど、なんとなく四角より円の気分だったのでUFOをチョイス。隣のチュロッキーは有事に備えて一緒に買った(有事って何???)。

帰宅してすぐに電気ケトルをセット。沸騰するのを待つ間、パッケージに記載されている作り方を読む。ひたすら読む。今日日カップ焼きそばの作り方をここまで熟読している人間は私くらいなのではないだろうか。今この瞬間に限っては、世界で一番真剣にカップ焼きそばと対峙している自信があった。

熱湯を注ぎ、3分待つ。きっちりタイマーで測った。カップ麺の待ち時間を正確に測るなんて、一体いつ振りだろうか。普段カップヌードルどん兵衛を食べる時、如何に不真面目な態度で臨んでいたか反省させられる。カップ焼きそばのおかげで、今まで蔑ろにしてきた大切なことに気づくことができた。

次に待ち構えるのは、最大の山場もしくは醍醐味と称しても過言ではない湯切り。「湯切りする時にシンクがベコッ!って鳴るのいいよね〜〜」「お湯捨てたかったのに間違えて麺捨てちゃってさ〜〜」みたいなカップ焼きそばあるあるに知ったかぶりをするのは今日でお終いだ。これからは私も「当事者」となるのだから──と崇高な心持ちでお湯を捨てたが、麺は一本も溢れなかったしシンクはうんともすんとも言わなかった(調べたら最近は熱湯を流しても音がしないタイプのものが多いらしい)。

そんなこんなで特に問題なく湯切りを済ませ、ソースと青のりもかけ終え、無事にカップ焼きそばが形になった。

湯切りする前の状態を見て(このままいい感じに味付けしたら美味しいラーメンが出来上がるのでは??)と魔が差した瞬間もあったが、完成した今となっては良い思い出である。
いざ実食。青海苔が鏤められた焦げ茶色の麺に、割り箸を埋める。掴んだ数本を、口へと運ぶ。


一口食べた感想は「あー、焼きそばだ」。
うん、焼きそばだ。紛うことなき焼きそばだ。確か、屋台で売られてる焼きそばもこんな具合のジャンキーさだったような。でも屋台のよりちょっと麺がふにゃっとしている気がする。本当は待ち時間2分半くらいでちょうど良いのだろうか。
様々な感想が、ぼんやりと脳裏に浮かんでは消えていく。けれど結局、最終的に辿り着くのは「無」だった。好きではない。嫌いでもない。胸の内に広がるのは虚空そのもの。ああ、カップ焼きそばでもこうなんだなぁ。やっぱり私と焼きそばの関係性は永遠に変わることないんだろうなぁ。

そんな風に考えていた矢先、事件が起きた。
半分ほど食べ進めた辺りで、ピタリと箸が止まってしまったのである。滅茶苦茶ざっくりはっきり言うと、「飽きた」。ついさっきまで普通に美味しく食べていたにもかかわらず、急にふつふつと湧いてくる抵抗感。明らかに身体がカップ焼きそばを拒否している。「もういらない!」と主張している。おかしい。今まで焼きそばを食べていてここまで明確な「飽き」の感情を抱くことはなかった。正真正銘初めての経験である。

とりあえずチュロッキーを食べ、仕切り直しを図る。まさかこんな「有事」が訪れるとは思ってもみなかった。過去の自分の名采配が光る。
糖分と油分の塊を摂取したことで、口内のコンディションは完全に激甘モード。ついでに午後の紅茶ミルクティーも流し込んで華麗なフィニッシュ。この状態ならカップ焼きそばの味の濃さが新鮮に感じられて、美味しく食べられるだろう。我ながら、360°どこから見ても隙のない完璧な作戦、のはずだった。

いらない。やっぱりいらない。身体が全く受け付けない。嘘だろ、あれだけ甘味ドーピングを行ったのに。もはや抵抗感を通り越して嫌悪感すら湧いてくる。姿を見たくなくて、剥がした蓋を再度被せた。目の前のカップ焼きそばに感じていたのは、紛れもない「拒絶」だった。

生まれて初めて、感情が芽生えた(焼きそばに対して)。凪いでいた海に、波が起きた。風もビュンビュン吹いてきた。柄の悪いお兄さんもやってきた。表記が思いっきり外国語な洗剤の容器とか砂浜に流れ着いてきた。

それは明らかにマイナス方面の感情で、これならずっと「無」でいた方がよかったのかもしれない。でも、どこか嬉しさも感じていた。付かず離れずな焼きそばとの距離が、一見ぐんと離れたようで、実は近くなったような気がしたからだ。
「一度もカップ焼きそばを食べずに死ぬわけにはいけない」という摩訶不思議な使命感も、もしかしたら焼きそばとの関係を変えたいと願う深層心理によるものだったのかもしれない。



この日、私と焼きそばの新たな歴史が幕を開けたのだった。





その晩。
外出先から帰ってきて、目に止まったのは半分残ったままのカップ焼きそば。今ならお腹も空いてるしと思い、残りの焼きそばを食べてしまうことにした。すっかり冷めちゃってるけど、まあいいや。
麺を啜る。抵抗感や嫌悪感はすっかり消えていた。うん、美味しい。うん、これぞ焼きそばだ………………………




ごめん、やっぱ「無」だわ。

昼間感じた強い感情は、いとも儚く散ってしまった。あれはもしかして、白昼夢か夢まぼろしの類だったのだろうか。もう二度と、感じることはできないのだろうか。

空になったカップの中に、得もいえぬ虚無が広がった。